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依田一義の不動産blog

依田一義がお送りする住宅に関するあれこれを綴るブログです。

~依田一義の神社巡り~ 秩父 三峰神社

~依田一義の神社巡り~

秩父 三峰神社

標高1,100mの神域、三峰神社

東京方面から行くと・ 関越自動車道・花園ICより国道140号線、皆野寄居バイパス経由で約2時間。秩父湖を抜けて15km程神社に向けて車を走らすと専用駐車場が見えてきます。車を降りて神殿に向けて走ると三ッ鳥居が見えてきます。

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澄まされた氣を感じながら本殿に向けて歩くと随身門(ずいしんもん)が見えてきます。

元禄4年(1691年)建立されたもので昔の仁王門にあたり、明治初年仁王像は鴻巣の勝願寺へ移されました。現随身門は寛政4年(1792年)再建されたものを、昭和40年(1965年)春 改修。扁額は増山雪齋の筆跡になります。当該神社は青銅鳥居(拝殿正面)付近に建立されていたという記録が伝えられています。

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いざ拝殿前の階段を上り

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境内に入るとまず見えてくるのが大きなご神木です。

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拝殿両脇に大きく構えるご神木は素晴らしいものです。1年に1回だけ白無垢のご神木で作ったお守りをいただく為に全国より早朝より夜遅くまで並ぶ程たくさんの行列でにぎわいます。

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ここで当該神社のご祭神、由緒をご紹介いたします。

 

三峰神社の由緒は古く、景行天皇が国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。

 尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが三峰神社の創まりであります。 

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その後、天皇日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。

 降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。

 又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。修行の場として実践空手を世に広めた極真空手の創始である大山倍達氏も当山で修行なさったとの事です。

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 天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。

 

こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。 

三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。

東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。

後柏原天皇の文亀二年(1503)に至り、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。

後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。

 更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。 

現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。

やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。

 以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。 

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